仮想世界を現実のように体感できるテクノロジー「VR(Virtual Reality)」。“VR元年”といわれる2016年には様々なデバイスやコンテンツが登場し、市場が急速に拡大し始めた。そんな2016年にVRサービスをローンチしたのが、株式会社スペースリーだ。同社代表取締役の森田博和氏は、大学で航空宇宙工学を専攻し、大学院ではJAXAプロジェクトに参画。そこから経済産業省に入省して留学の後、起業したという“異色”の経歴の持ち主だ。森田氏は、それぞれのターニングポイントで何を考え選択をしたのか、そしてVRを通して何を実現しようとしているのか、話を聞いた。
森田博和(もりた・ひろかず)
株式会社スペースリー 代表取締役
東京大学大学院卒業、航空宇宙工学修士(JAXA所属)取得。2005年経済産業省入省、内閣官房宇宙開発戦略本部事務局への出向を含め航空宇宙政策の企画、立案等に携わり、6年間勤務。2013年シカゴ大学大学院にてMBA取得(アントレプレナーシップ・統計学等専攻)後、株式会社スペースリー創業。
高品質なVRコンテンツを手軽に制作できるクラウドサービス
スペースリーが提供するのは、360度VRコンテンツ制作・活用を支援するクラウドサービス「スペースリー」だ。市販の360度カメラで撮影した画像をクラウドにアップロードするだけで、高品質なVRコンテンツを手軽に制作できる。
「スペースリー」の利用事業者アカウント数は現在3,000社を超え、企業の営業や接客、マーケティングなどのシーンで活用されており、中でも不動産業界のクライアントが8割を占めている。例えば賃貸仲介業者の場合、従来は現地へ内見に行くことが当たり前だったが、VRコンテンツで現地に行かずとも内見の“体験”を提供することで、顧客満足度を高め、効率よく成約につなげることが可能となった。実際、ある賃貸仲介業者では「スペースリー」を活用することで、大学受験シーズンの繁忙期の接客数が前年比50%増、7割が現地への内見なしで物件を予約したという。
2019年からは、研修領域へのVR活用も開始。全国展開する大手外食チェーンや、製造業の工場オペレーション領域などへの提供を進めている。紙のマニュアルでは感覚をつかむのに時間がかり、人材不足が課題となる中で現場OJTに時間を割くことも難しい時代だ。そこでVRコンテンツを活用することで、現実にその場で教わっているような体験をすることができる。深刻な人材不足が進む中、技術やスキルを効果的に行きわたらせる研修手法へのニーズは、様々な分野で高まっていくだろう。その他にも、VR空間での行動データ分析などVR×AIの研究開発も進めている。
VRは人々の体験そのものを大きく変える
スペースリー代表の森田氏は、VRテクノロジーが社会に与えるインパクトは、「情報伝達や情報アーカイブの在り方が大きく変わる」ことだと言う。これまで私たちの情報伝達の手段は、文字、写真、そして映像へと発展し、私たちの物事の捉え方や感じ方にも大きな影響を及ぼしてきた。今後VR技術が当たり前になることで、空間そのものを体験することができ、私たちは文字や映像では得られなかった情報を伝えることができる。それはすなわち、人類の物事の捉え方、問題意識の持ち方に大きな変化が訪れるということだ。VRはまさに情報フォーマットとして無限の可能性を秘めているのだ。
現在はVRにフォーカスした事業を展開しているスペースリーだが、今後は新たな領域に進出する可能性もあるだろう。その際に軸となるのは、「新しい驚きと発見を世の中に提供し、人類の進歩に貢献したい」という想いだ。そのために、「可能性を秘めた新技術を、世の中に役立つ形で提供する、そのインフラとして価値を発揮していきたい」と、森田氏は語る。
【画像左】高品質な360度VRコンテンツを、様々なデバイスでどこよりも簡単に制作し効果的に活用することが可能。 【画像右】VRデバイスでの接客にも活用。消費者と事業者のVRコンテンツ同期の技術はスペースリーの独自技術。
研究者ではなく、官僚の道を選んだ理由
森田氏は、VR技術者としてのバックグランドがあるわけではない。大学では航空宇宙工学を専攻し、大学院ではJAXAで研究に従事。修了後は経産省に入省、留学してMBAを取得し、独立を果たした。「一見、脈絡のないキャリアに見えるかもしれません。しかし僕の中で『人類の進歩に貢献したい』という想いは一貫しています」。そんな森田氏の半生を紹介する。
森田氏は東京・練馬区で開業医の長男として生まれた。幼い頃から漠然と「将来は医者になる」と考え、当然のごとく理系を選択した。しかし勉強をしていくうちに人類の起源や西洋哲学の思想に触れ、それはやがて宇宙という未知なる領域への興味へとつながっていった。そして家族の反対を押し切り、東京大学工学部に進学して航空宇宙工学を専攻した。学生時代は忙しい研究の中で時間を捻出し、バックパッカーとして世界を旅したという森田氏。自分とは異なる文化圏で、まったく異なる価値観や生活に触れる経験は、とても新鮮だったという。また、未知なるものへの興味からアートも好きで、海外のギャラリーにも足しげく訪れた。
大学院ではJAXAの宇宙科学研究所で、太陽光発電衛星のナショナルプロジェクトの研究に携わった。「その頃ちょうど、Xプライズ財団により開催された『Ansari X Prize』で、民間による初の有人弾道宇宙飛行が成功しました。産業化・商業化の波が、宇宙領域にも訪れようとしていると感じ、そこに貢献したいと考えました」。日本の宇宙開発領域で研究予算や計画の策定を行うのは、研究者ではなく中央省庁だ。そこで、森田氏は研究者ではなく官僚となる道を選択し、経済産業省への入省を決めた。
経済産業省に入省して6年で、MBA留学
経産省に入省し、最初の2年は中小企業庁にてスタートアップ支援に携わったものの、「当時は、自分が起業するとは考えてもいなかった」という。その後は、資源エネルギー庁にて省エネルギー・新エネルギーの海外展開における国際交渉を担う。国がエネルギー開発に大きな予算を投入し始めた時期で、「とにかくエキサイティングな経験ができた」という。
4年目には内閣官房宇宙開発戦略本部事務局にて、目指していた宇宙開発の計画策定に関わるようになった。「希望していた領域に携わり、充実していました。しかし一方では、パブリックな仕事の限界も感じ始めていたことも事実です。この仕事も面白いのだけれど、最終的に計画を実現するのは自分たちではありません。そうした、もどかしい気持ちが大きくなっていました」
そんな想いを抱え、入省6年で森田氏は国費留学を決意する。国際法やパブリックポリシーなど複数の選択肢があったが、シカゴ大学ビジネススクールへのMBA留学を決める。「もともと宇宙分野の商業化に問題意識を抱えていたことから、パブリック領域よりも、ビジネス領域での見識を深めたいと考えました」
留学して初めて気付いた、起業という選択肢
修了後はもちろん経済産業省に戻り、留学で得た知見を活かそうと考えていたという森田氏。しかし、帰国直後に経済産業省を辞め、独立を果たす。その大きなきっかけとなったのが、シカゴのアクセラレータプログラムに採択されたことだ。自分で事業を立ち上げ、そこでスタートアップのコミュニティとの関わりを持った。「彼らにとって起業は特別なことではなく、たとえ数年で失敗しても、それでキャリアが終わるとは考えていません。むしろ、失敗も含めて起業経験を評価してもらえるから、普通に大学を卒業した人よりも、有利な条件で就職できることもあります。失敗がステップアップにつながる。そういった感覚は、日本にいた時には味わえないものでした」
たとえ小さいことであっても主体的なアプローチをして、自分が抱える問題意識や情熱を、自分の手で事業という形にしていく。そんな起業家たちの姿を間近で見ることで、パブリックな仕事で感じていた、『自分たちが実行するわけではない』もどかしさが消え去った。「そういう世界で自分も生きてみたいと思い、起業することを決めました」。経済産業省に戻らなければ、留学費用を返済しなければならない。それでも、森田氏はそのまま我慢して勤め続けることは自分の価値観に合わないと感じ、起業の道を選択した。
森田氏が最初に取り組んだ事業は、興味のあるアート分野だった。「アートは、新しい価値観を提示し、人を豊かにする上で不可欠です。しかし、需要と供給のマッチングがうまくいかず、死蔵作品が多数あることに課題を感じていました。そこで、オンラインで流通促進するプラットフォーム事業を始めました」。実は、VRの可能性に気付いたのも、アートがきっかけだ。「作品には、その背景や作者の意図といった文脈があります。しかし写真などではそれが伝わらないという問題がありました。そこで空間アーカイブを蓄積することの重要性を感じていた時に、VRに辿り着いたのです」
何かに情熱を傾けることは、個人にも人類にもプラスになる
自分の中から湧きだす問題意識から目をそらさず、自らの価値観で進む道を決めてきた森田氏。これから社会に羽ばたく理系学生に、キャリア選択のアドバイスを聞いた。「人それぞれが情熱を傾けられる対象を持ち、それに向かって打ち込むことは、個人の人生にとっても良いことだし、人類の進歩という観点でもいいことだと思います。しかし、そういう対象を見つけるのは、容易なことではありません。では、見つけられる可能性を少しでも高めるためにはどうすればいいかというと、色んな経験や体験を食わず嫌いせずにやってみる、それが一番だと思います。理系学生は研究が忙しいこともあるでしょうが、社会人となって仕事や家族など多くの重責を負った状態よりも、多少の“バッファ”を持てる時期です。その時期に、ひとつの世界に閉じこもるのはもったいない。無理にでも別の世界を見る経験をしてみてください」
最短距離で、寄り道も失敗もしない。それが優秀だという価値観も確かにある。しかし、森田氏の経験から、たくさんの可能性の中に身を置くことこそが、自身の成長につながるということが見えてくる。
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