【キャリア情報誌 理系ナビ 2025年夏号 掲載記事】
量子コンピュータの社会実装が模索される中、東京科学大学発のスタートアップである株式会社Jij(ジェイアイジェイ)は量子コンピュータと数理最適化の領域で企業の課題解決に取り組んでいる。物流やエネルギーなどの分野をはじめ、「どの組み合わせが最適か」という問題は世の中に数多く存在するが、計算量が膨大になることから従来型のコンピュータではアプローチが難しかった。そんな大規模計算を伴う組合せ最適化問題に対して、Jijは量子技術と数理最適化で挑んでいる。先端技術を社会実装する上での向き合い方や理系学生のキャリアについて、同社CEOの山城氏に聞いた。
PROFILE
山城 悠(やましろ・ゆう)
株式会社Jij 代表取締役 CEO
1994年、沖縄県出身。沖縄科学技術大学院大学(OIST)にて量子情報処理デバイスの研究に従事後、2017年に東京工業大学大学院(現:東京科学大学大学院)に進学し、量子アニーリングの理論研究を行う。
2018年11月、株式会社Jijを創業し代表取締役CEOに就任。量子技術を活用した数理最適化ソリューションの開発・提供に取り組む。2021年にForbes 30 Asia Under 30、2023年にForbes 30 Japan UNDER 30に選出。
量子技術と数理最適化が支える意思決定の科学
株式会社Jijは量子コンピュータと数理最適化の領域で企業の課題解決を支援するディープテック系スタートアップだ。量子コンピュータが並列計算において既存のコンピュータを凌駕する性能を持つことはよく知られており、大規模計算が要求される「組合せ問題」に対して大きな力を発揮する。
「配送計画、発電計画、人員の配置計画など、計画と名がつくものは、すべてが最適化問題の対象になりえます」。そう語るのは株式会社Jij代表の山城氏だ。近年ではAIと混同されることもあるが、AIがデータ分析や予測に重点を置くのに対し、数理最適化は膨大な選択肢の中から最適なものを選び出す技術。最適化計算が「意思決定の科学」と表現されるゆえんだ。
ビジネスにおける実例を取り上げてみよう。例えば、製造業の生産計画は、従来は熟練の担当者が数時間、場合によっては数日かけて作成していた。しかし、Jijが提供するソリューションにより、このプロセスを大幅に短縮できる。「大手化学メーカーの生産計画を6時間から1分に短縮した事例もあります。さらには、最適化計算に詳しくない人でもこの技術を利用できる点が大きなポイントです」
ビッグデータが導いた最適化計算の時代
最適化計算のニーズは、この数年で急速に高まっているという。しかし、実は新しいテーマというわけではない。「古くからOR(オペレーションズ・リサーチ)という分野に最適化問題が存在していました。ORは数学や統計学などを用いて最適な解決策を見出す手法で、物資の運搬など軍事的な目的で発展してきた歴史があります。最適な資源配分や輸送ルートの決定は、戦争の勝敗を左右する重要な要素でした」
そのような「古くて新しい」最適化計算が近年注目されるようになったのは、最適化のインプットとなるデータが整備されてきたことが大きい。「以前は、データが紙で管理されていたり、道路の混雑状況などから配送時間の予測が難しかったりして、最適化技術の活用が困難でした。しかし、機械学習がコモディティ化してきたことにより、膨大なデータをインプットして予測することが容易になりました」
ニーズ拡大の背景としては、電力分野における状況の変化なども挙げられる。電力分野では、火力発電だけでなく、水力や風力など多様な選択肢が出てきたことも、最適化の必要性を高めているという。再生可能エネルギーの導入が進む中で、水位の制約や火力発電とのバランスなど、複雑な条件を考慮する必要が出てきており、さらには労働力不足も効率化へのニーズを加速させており、最適化計算のニーズは年々高まりを続けている。
信号機の最適化が生み出す巨大な価値
Jijが手掛ける最適化プロジェクトの一つが、都市交通における信号機の最適化だ。信号機の点灯パターンを最適化することで環境負荷を大きく軽減できる可能性があるという。
「過去の研究では、信号機の最適な制御によって車の燃費を最大20%改善できるということが示唆されていました。莫大な研究開発費を投じて燃費に優れた新型車を開発して普及させる方法もありますが、信号機を最適化するだけではるかに大きな効果が期待できます」車の燃費向上だけでなく、渋滞の解消や都市全体の活性化といった価値を創出しうる巨大なテーマだ。そして、信号機の最適な制御を実現する上では数理最適化の技術が鍵を握る。
Jijは豊田通商と協力して「交通信号制御の最適化」をテーマとした共同研究を実施。道路を通行する自動車の待ち時間が最短になる信号機の点灯パターンの最適解を導き出すという問題に取り組んだ。社会実装するためには自治体や警察庁など多数の関係者との連携が必要になるため、すぐに実現できるものではないが、数理最適化が持つインパクトの大きさがよく分かる事例といえる。
磨いてきた技術に固執しない心の強さ
山城氏は先端技術の社会実装に挑むモチベーションについて「次のサイエンスが何なのかを知りたい」と語る。「科学者になる選択肢も考えましたが、その科学を社会に実装すれば科学がさらに発展して、新しい技術が生まれます」
しかし、先端技術を社会実装する上で、技術は手段であることは忘れてはいけない、と山城氏は強調する。「私自身、もともとは量子技術が専門でしたが、技術の領域はどんどん幅広くなっています。ユーザーに感じてもらう価値を最大化するためには、自分の手札をためらわずに変えていくことが大切です」
もちろん技術を疎かにするわけではない。「初手は今持っている技術をどう活かすか、という技術ドリブンのアプローチでもいい」という山城氏。しかし、課題ドリブンで向き合ったときに、自分の手持ちの技術にこだわっていると、手札にない課題に対応できない。
「理系学生であれば、まずは初手になる技術を磨くことになるでしょう。ですが、技術を磨いた後は、それに固執しないという心の強さも持ち合わせていなければいけません。技術を社会実装していく上では、あえて自分の技術に固執せず、広く視野を持つことが大切です」と、心構えを教えてくれた。
自分の意思を周囲に語ることが、運を引き寄せる
高校生の頃、山城氏は「タイムマシンを作って未来を見てみたい」という夢を抱いていたという。素粒子について学んだが、最終的には総合的な観点から「タイムマシンは作れない」との結論に至る。そこで山城氏は、未来が見られないならば、「新しい技術を社会実装して自分で未来を作ればいい」と考え方を大胆に転換する。
社会実装のインパクトが大きい分野を調べた山城氏は、量子技術の分野へ足を踏み入れるため、沖縄科学技術大学院 (OIST)に進んで量子技術を使ったハードウェアの研究に取り組み、世界に先駆けて量子アニーリング理論を発表した東京科学大学の西森秀稔研究室へ。その後、科学技術振興機構(JST)の大学発新産業創出プログラム(START)の存在を知り、研究員として応募。そこでプロジェクトの後半になり、STARTの取り組んできたことの社会実装を誰が担うのか、という議論が立ち上がったところで山城氏は手を挙げ、2018年に株式会社Jijを創業する。
これまでのキャリアを振り返って「運が良かった」と山城氏は謙虚に語るが、受け身の姿勢で機会を待っていたわけではない。いろいろな分野に手を出し、熱意を周囲に発信し続けてきたことが、結果として自身のキャリアを築いてきたのだという。「量子コンピューティングの研究をしていた時に、周囲に“こういうことをやりたい”と話していたことが、西森先生(東京科学大学)との出会いにつながりました。また、STARTプログラムをSNSで知って応募したことが大関先生(東北大学)との出会いにもつながりました」
「やりたいことを周りに話しておくことは、非常に重要だと思います。スティーブ・ジョブズの言葉である“コネクティングドット(点と点がつながる)”ではありませんが、あまり深く考えずに、やりたいことを口に出すことが、運を引き寄せることにつながるのではないでしょうか」
そして、専門性を深めるだけでなく、対外的に発表する場を持つことは、その後のビジネスにもつながる。「Jijの最初の顧客は、研究所のつながりや、学会発表を見てくれた人たちでした。専門性を高め、それを外に発信することで新たなチャンスが生まれるのです」
極めた専門性は、他の分野にも通じる
山城氏に理系学生へのキャリアのアドバイスを聞くと「中長期と短期の二つの視点が重要」という言葉が返ってきた。「技術を社会実装する上での心構えにも通じますが、短期的には専門性を深め、人に語れるレベルにしておくことが重要です。例えば化学の専門性を極めた上で製薬系のコンサルティングファームに入ったとすると、その専門知識を活かして活躍できるでしょう」。しかし、専門性を磨く意味はそれだけではない。「専門性を深めていくとファンダメンタルなところで他の分野とも通じる部分があり、周辺領域でも自分の意見を語りやすくなります」
自分の専攻をそのまま活かせる業界や職種、という選択肢は誰もが思い浮かべるだろうが、山城氏は前述の考え方を踏まえ、「一歩ずらしたキャリア」も推奨する。まずは専門性を磨き、将来的にはその周辺領域で価値を発揮し、キャリアを築いていくという考え方だ。「特定の領域に特化した専門性を周辺領域でも活かせるのは理系学生の強みです。理系学生には、自分の専門性を強みとして幅広いキャリアを選択できる可能性があります」
事実、海外ではビジネスの世界でも博士号を持っている人物が少なくない。山城氏が日々接するベンチャーキャピタルからも博士号所有者のニーズの大きさを感じているのだという。「技術とビジネスが接近していることを感じています。博士号を取ると、研究だけでなく、実はビジネスにおいても幅広い活躍のチャンスが拓けるんです。理系は専門的な世界に思えますが、実はとても選択肢が広い、ということは知ってもらいたいですね」