新聞や雑誌、テレビ、動画配信サービスにSNS――。いま私たちは視覚・聴覚を通じて様々な情報に触れ、さらには個人的な体験を共有できるようになった。しかし、現地の物理的な感覚までをも共有することはまだ難しい。もし、ステイホーム中にも海外の観光地にいるようなリアルな体験ができたら――そんな夢のような世界を実現しようとしているのが、H2L株式会社だ。創業者の玉城氏は、10代のころのある経験をきっかけに、先行研究のほとんどない領域に踏み込んでいく。これまでのキャリア、そして描く未来について玉城氏に聞いた。
玉城 絵美(たまき・えみ)
H2L株式会社 創業者
1984年沖縄県生まれ。2006年、琉球大学工学部情報工学科卒。筑波大学大学院システム情報工学研究科、東京大学大学院学際情報学府でロボットやヒューマンインターフェースの研究を行う。2011年東京大学大学院で博士号(学際情報学)取得。アメリカのディズニー・リサーチ社、東京大学大学院総合文化研究科などを経て、早稲田大学准教授。2012年、H2L株式会社を起業。内閣府や経済産業省のイノベーション関連会議委員のほか、外務省WINDS(女性の理系キャリア促進のためのイニシアティブ)大使、内閣府STEM Girls Ambassadorなどを務める。2021年4月より琉球大学教授。
コンピューターを介して、他人やロボットと体験をシェア
「固有感覚」という言葉をご存知だろうか。重量感覚や抵抗感覚、位置感覚のことで、身体を動かす上で非常に重要な感覚だ。固有感覚のおかげで、私たちは適切な力加減で物を持つことができ、楽器演奏や運動をすることができる。もし、視覚や聴覚に加えて、この固有感覚もシェアできたら、どれだけ人間の体験の幅は広がるだろうか―。H2L株式会社の創業者である玉城絵美氏は、視覚や聴覚に加え、固有感覚の体験情報をネットワーク経由で伝達し、遠隔地にいる人やロボットとシェアする技術を「BodySharing(ボディシェアリング)」と命名。同社で「BodySharing」のデバイスやシステム開発に取り組む研究チームを率いている。
H2Lは、「Happy Hacking Life」を理念に掲げ、2012年に創業。2016年には筋変位センサーを搭載し腕への触感を疑似体験できる触感型ゲームコントローラー「UnlimitedHand」、そして2018年にはVRゴーグルとセットにした「FirstVR」を発売し、固有感覚を誰もがシェアできる社会に向けて着実に歩みを進めている。H2LのYouTubeチャンネルでは、ロボットと動きを共有する様子や、楽器を演奏できる人の固有感覚を共有することで、未経験者がサックスや琴などを演奏している姿を見られる。将来的には、料理、教育、観光、スポーツといった生活のあらゆる体験を、自宅で同じように体験できるようになるだろう。
オープンイノベーションによる実証実験も進行している。2020年にはNTTドコモと共創し、BodySharing技術と5Gを融合した観光体験のカヤックロボットの実証実験を行った。VRを装着して遠く離れた観光地にあるカヤックを操作することで、視覚だけではなくオールをかく時の水の抵抗や、カヤックの揺れなどをリアルに体験できる。これが実用化すれば、都市部に働く人が休憩時間を利用して、遠方の観光地で自然と触れ合う体験ができるかもしれない。
空間・時間・身体的な制約をなくしたい
BodySharingが目指すのは、「人間が人生で体験できることの量を、2倍3倍へ増やすこと」だと、玉城氏は言う。「人間には、空間・時間・身体的な制約があります。人流制限により海外へ自由に行き来できなくなったり、仕事や育児に忙殺されて遊びに行く時間が取れなかったり、あるいは体力や障がいの問題で遠くまで移動できないなど、体験の量が制限されることがあります。BodySharingにより体験をみんなでシェアして、そういった制約をなくしていきたいというのが、H2Lと私の研究グループのビジョンです」
H2Lの目指す世界が実現すれば、人間は同時並列で様々な体験をできるようになるだろう。東京に住む人が九州で陶芸を、北海道でウインタースポーツを、ハワイでマリンスポーツを楽しむ。複数のアバターを持つことにより、室内にいながら1日ですべて体験できるのだ。「社会実装されるまでは大変かもしれません。でも、江戸時代はテレビやラジオもなく、文字や伝聞で情報を得ていました。SNSで色んな人とつながって、体験や情報を視聴覚で気軽にシェアできるようになったのも、人類の歴史を見ればごく最近のことです。そう考えると、BodySharingが当たり前の世界は決して遠い未来ではありません」。玉城氏のビジョンを聞いていると、固有感覚がシェアできる社会が間近に迫っていると感じられる。
電極パッドの位置と電気刺激の大きさによって、前腕の筋肉を局所的に刺激し、脳の命令とは無関係に手指を動かすことができる『Possessed Hand(ポゼストハンド)』。米TIME誌の記事「ベスト50イノベーション」に掲載されるなど、世界から注目を集める。
病床で感じた「体験への渇望」が研究の原点
コロナ禍で“体験”の重要性に改めて気付かされた方も多いだろう。コロナ禍が収束しても、いつまた移動や体験が制限される時代が訪れるか、誰にも分からない。「それなら、どうにかして人類が技術を使って進化していくしかないですよね」と、玉城氏は明るく話す。
その玉城氏が、「体験への渇望」を痛感したのは、10代の頃だったという。玉城氏は当時、先天性の心臓病が悪化して入院を余儀なくされていたという。「同室の入院患者さんたちは色んな病気で外に出られず、みんな人生経験に飢えていたんです。何度か命の危機を迎えるうちに、私も『もうちょっと色んなことを経験しておけばよかった』と、後悔するようになりました。幸い、医師や家族の支えにより回復しましたが、この経験が私の原点となっています」と、玉城氏は振り返る。
玉城氏は闘病しながら、琉球大学の工学部に進学。複雑系工学を専攻し、コンピュータービジョンの研究を行った。修士課程は筑波大学でロボット制御の研究をしたが、そこでまた転機があった。「ロボット領域がかっこいいと思って専攻したのですが、実際に入ってみると私よりもずっと優秀な研究者がたくさんいたのです。これは私がしなくても、その人たちに任せたほうがいいと思いました。世の中に体験共有を進めるためには何が必要か、改めて考え直したのです」
そこで行き着いたのが、人とコンピューターとの相互作用を研究するヒューマンコンピュータインタラクション(HCI)だ。「体験を共有するには、人間側の研究がもっと必要だと思いました。そこで琉球大学の先生に相談したところ、東大にHCIの新しい研究室が開設されることを知り、東京大学大学院学際情報学府の博士課程に進学。そこで、コンピューター信号で人の手を自由に動かすことができる装置「ポゼストハンド」を開発、2011年にアメリカ『TIME』誌の「世界の発明50」に選出された。さらに博士号取得後は、異分野ながら基礎心理の研究室の博士研究員となり、人間の感覚などをより深く学んで研究に役立てる。そして2012年、28歳の時にH2Lを共同創業したのだ。
サービスイン、そして産業化に向けた課題と葛藤
創業後、サービス化まで様々な苦労があったというが、最も大きな課題は、固有感覚の共有に必要なセンサーとアクチュエータ(駆動装置)が存在しなかったことだ。「TRL(Technology Readiness Level:技術成熟度レベル)という、NASAによって開発された、技術開発の段階を定量的に把握するための尺度があります。1~9まで9段階あり、9になるとサービスインができるのですが、企業当初はアクチュエータのTRLは4~6、センサーに至っては1でした。事業として軌道に乗せるには少なくとも7か8のレベルに上げなければなりません」。そこで玉城氏ら研究グループが最初に着目したのは、「筋電」という筋肉が収縮する際発生する微弱な電気信号を読み取る手法だ。リハビリでも活用されているため、うまくいくかと思ったものの、1年ほど研究をしたが壁は超えられなかった。「リハビリ施設と異なり、日常生活空間には様々なノイズがあります。スマホを手に持っているだけでもノイズが入るので、BodySharingに活用するのは不可能だと思いました」
1年費やした研究を、諦めるのか―玉城氏は葛藤した。しかし、切り替えなければサービス化は難しい。そこで新たに、筋肉が通す光に着目。光学式筋変位センサーにより筋肉の動きを検出することで、サービス化につなげることができたのだ。
そして、いくら素晴らしい技術があっても、世の中に必要性が認識されなければ、産業化は難しい。BodySharingを世の中の当たり前にしていくには、市場を創ることも必要だ。「それは、1人の研究者、1つのベンチャー企業の力だけでは実現できません。ほかのベンチャーはもちろん、大企業、そして官公庁と手を携えていく必要があります。そのためには、起業家、研究者とはまた別の活動をする必要があると考えました」。そこで玉城氏は、2015年より「内閣府や経済産業省のイノベーション関連会議委員」に就任。日本全体の科学技術振興に貢献しながらBodySharingの社会実装に向けて、誰もが時間・空間・身体的な制約なく体験を共有できる豊かな未来のために走り続けている。
触感型ゲームコントローラ『UnlimitedHand(アンリミテッドハンド)』は、腕に巻いた装置に内蔵されたモーションセンサと筋変位センサにより、ユーザの手の動きをゲームに反映できる。さらに、機能的電気刺激によってユーザの筋肉を収縮させ、擬似的な触感も実現する。
アカデミアとビジネス、根底は同じ
「まず、どのような未来を創りたいのか、具体的なビジョンを持つことです」。起業を考えている理系学生へのアドバイスとして、玉城氏はこう語る。「しかも、なるべく詳細に詰めた方がいいと思います。絶対に『こんな世界を創る』という想いがあれば、壁にぶつかった時にもブレずにいられるからです。そして実務的なところでは、少しでもいいので財務・会計・知財について勉強しておくといいでしょう」
アカデミアとビジネス、両方の世界を結びつけるのは難しいように思える。しかし玉城氏は「相互理解が一番大切。意外と、根底は一緒です」という。その共通点とは何か。「プロジェクトの回し方や報告の仕方、価値創出の仕方、すべてが共通しています。そして研究には重要な要素が3つ、『新規性』『再現性』『寄与』がありますが、これらはビジネスでも不可欠。ですから必要以上に身構えず、ちょっと違う分野だという感覚でとらえてほしいです。そして、ビジネスの世界では文理の融合が進んでいますから、枠にとらわれず、自分のやりたい分野で、色んなキャリアにチャレンジしてほしいですね」
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