世界初の経営コンサルティングファームであるアーサー・D・リトル(以下、ADL)は「経営と技術の融合」が必要だと唱えている。そのADLで日本代表を務める原田裕介氏は理系出身。メーカーで研究開発職に就いていたが、いくつかの出来事を経て「技術に加えて、経営のことも分からないと会社を変えることはできない」と痛感し、後にコンサルティング業界に転身することになった。
原田 裕介(はらだ・ゆうすけ)
アーサー・D・リトル(ジャパン)株式会社 マネージング ディレクター・日本代表
東京工業大学大学院総合理工学研究科修士課程を修了。富士ゼロックス入社後、アメリカに留学。94年にマサチューセッツ工科大学(MIT)のスローン経営大学院と技術・政策大学院を修了する。富士ゼロックスでは研究開発のほか、業務改革・企画管理・技術戦略などの業務を担当。ADLには1997年に参画し、主に情報電子・エレクトロニクス、自動車・機械・産業機器、化学・素材などのメーカー向けに、コーポレートビジョン、新規事業戦略・技術戦略の策定、組織改革を支援してきた。経済産業省技術経営プログラム企画検討委員などを歴任。
技術者視点で感じた「優れた特許・技術をもっと活かせないだろうか」との思い
スティーブ・ジョブズはMacintoshを世に送り出したが、基になる技術はゼロックスのパロアルト研究所で生まれたものだった。製品コンセプトから要素技術まで、すべてを持っていたゼロックスがその気になれば、Macintoshを作れたかもしれない。しかし、ゼロックスは主力製品である複写機の収益性が非常に高かったために、将来性が不透明なパーソナルコンピューターへの積極的な投資は行わなかった。
原田裕介氏は富士ゼロックスで、複写機の心臓部となる光半導体の研究開発に従事していた。光半導体の新技術にかかわる基本特許は米ゼロックスが保有していたが、先んじて新しい光半導体を上市したのは、既存技術の存在で開発着手に遅れた富士ゼロックスでなく、後発競合日本企業だった。
「“Macintosh”も“光半導体”も、共通するのは技術開発能力そのものの問題よりも、過去の成功体験から抜け出ることができない、経営意思決定の問題」という状況を目の当たりにした。同時に、「日本の富士ゼロックスだけでなく、ゼロックスグループ全体が有する先進的な技術力をもっと活かすことはできないだろうか」と感じていた。
またある時、原田氏は会社の方針で光半導体のコスト削減に注力し、やっとの思いでいくらかのコストを削減した。しかし、後日知ったのは、「高コストの主要因は開発部門ではなく、生産部門の製造ライン設計にあり、そこを改善しなければ大幅なコスト削減は難しい」という事実だった。
そのような現状に直面した原田氏は、「目の前の技術だけを見ていても、大きな判断ミスをする。事業や会社をダントツにしていくためには、もっと深い洞察力と広い視野が必要ということを痛烈に感じた」と当時を振り返っている。
「これからは情報技術と海外と個の尊重」。いずれも満たす富士ゼロックスに就職
学生時代、原田氏は東京工業大学で金属について研究していた。まずはマクロな視点から金属の性能を計測。次にミクロな視点に切り替えて、原子構造を分析し「なぜそのような特性になるのか」と思考する習慣を身に付けるようになっていた。
「果因でものごとを考える。計測されたファクトがまずは重要。経営や事業の結果を動かしがたい現実として虚心坦懐に受け止めること。その上で、良い性能を発現するであろう構造を考察し、その仮説検証をあきらめることなく繰り返すこと。また、コンサルティング業界には『鳥の目・虫の目』という言葉があります。マクロとミクロの視点を併せ持つ重要性を訴えた言葉です。学生時代に身に付けた習慣が、今でも役立っていると思います」(原田氏 以下同)
大学を出た後のキャリアについて考えた時、原田氏の頭の中にあったのは、先輩からしきりに聞かされてきた「これからの時代はコンピュータと海外だ」という話と、普段は「勉強しろ」と一言も言わなかった父親の「海外で学んではどうか」という何気ないがたびたび聞かされていたほのめかしだった。
就職先は、グローバルな視点で働ける企業である富士ゼロックスに決めた。「富士ゼロックスの技術者は、勤務時間の20%を自由に使えましたし、アメリカやカナダの技術者との技術交流会も定期的にありました」中には、パロアルト研究所へ行く研究者もいたという。
MITに留学。帰国後は「自ら課題を見つけ、解決策を考える」仕事に
入社後に任されたのは、複写機・プリンターに使う有機光半導体の開発。複写機は機械、電気・電子、ソフトウェア、材料・化学といった複数の技術が組み合わさって初めて使い物になる。光半導体の設計をするにしても、複数の技術が関与する一連の複写のプロセス全体を考慮しながらの試行錯誤が必要。おもしろい仕事だと感じていたそうだ。
しかし、入社からしばらく経ち、冒頭で取り上げた「商品化の取り組み遅れ」と「コスト削減の視点間違い」を経験。研究開発に軸を置きながらも、それ以外の分野についても視野を広げる必要性を実感するようになった。
そこで原田氏は社内の留学制度を活用。米マサチューセッツ工科大学(MIT)へ留学し、経営や技術政策について学ぶことに決めた。
何人かの留学仲間は帰国後すぐにコンサルティング業界などへ転身したが、原田氏には転職する意志はなかった。復帰直後は以前と変わらない研究開発の仕事だったが、約1年後、事業管理・総務・経理・人事・研究開発・生産・物流などの一連の機能を持つ画像形成材料センターのセンター長直属のポジションを用意してもらえることになった。
「“上から与えられた仕事”がほぼないんですよ。各部署から毎月送られてくる報告書に目を通して、自ら課題を見つけ、解決するためには何をすれば良いのか考える。会社がどうやって動いているのか、各部署がどのような役割を果たしているのか、よく分かりましたね。課題をみつける視点の持ち方、提案の視座や実行に持っていく肝。実際のところ、key部材の内製化提案に対して前部門の上司だった本部長から“リスクを冒したくない”ことを暗に示されたりして葛藤しました。また、オペレーションや戦略方針だけでなく、人の問題の重要性に気づかされた場面も多く、この時の経験が、私の中で最大の資産になっています」
ヘッドハンターとの出会いがきっかけとなり、考えた自身のキャリア
留学後、社外での活動も充実していた。日本で政策研究大学院大学を設立する準備委員会が立ち上がった際、「海外で技術経営や政策論について学んできた人物」として原田氏に白羽の矢が立ち、委員会で意見を述べる機会が与えられた。同年代の留学経験者も何人か同じような経緯から準備委員会に参加。さまざまな経歴を持つ人々と交流を持ち、国の将来のために議論を交わすことに大いに刺激を受けていたという。
それ以外にも社外勉強会の一環として、「のちにドコモでiモードを立ち上げた夏野剛氏らと一緒に、コンサルタントのまねごとのようなことをしていました。当時話題のITベンチャーから、ボクシングジム、イタリアンレストランといったクライアントの多様性に加えて、参加メンバーのバックグランドの違いで“ものの見方”が異なることがいつも新鮮でした」
そうした活動から刺激を受けていたが、それでも富士ゼロックスから離れるつもりはなかったと言う。そんな原田氏をコンサルティング業界へ導いたのは、あるヘッドハンターの一言だった。知人の紹介から外国人ヘッドハンターと会うことになり、その席上、某外資系コンサルティング会社への転職を勧められた。乗り気になれない原田氏に業を煮やした彼は「今年ならYesかNoか選択できるが、来年になれば選択肢はないものと思え!」という捨て台詞を吐いて去っていった。
「来年になったら選べない」という部分が頭から離れなかった原田氏は、コンサルティング業界で働く知人のところへ相談に行く。どんな仕事をしているのか話を聞き、自身のキャリアについて相談するうちに、社外活動で感じていたこと(産業や国への貢献、複眼的視点の重要さ)とも結びつき、「自然と『転職しよう』という気持ちになったのです」
岐路を迎えた自動車メーカーのため、研究開発部門の組織改革を支援
そのような経緯からADLで働くことになった原田氏。留学時代にMITの授業でも取り上げられていた「第三世代のR&D」の著者(ADL欧州パートナー)から、「“経営者が技術を理解するより、筋の良い技術者に経営視点を身につけてもらう方が早い”のではという問題意識から執筆した」という話を、興味深く聞いた。また、現在までに数多くの案件を手掛けてきた原田氏だが、その中でも特に思い出深いものを聞くと、三つの事例を挙げてくれた。
「一つ目は、ある自動車会社の2000年頃の組織改革です。継続的にイノベーションを産み出す基盤を“組織風土・行動規範”と定義した案件です。当時、自動車業界では、ハイブリッド車やITS(高度道路交通システム)など、技術的な岐路を迎えており、また、欧州企業を中心にデジタル技術活用による、仕事の進め方の変革も目につきはじめた頃でした。こういった『技術をとりまく環境の変曲点』に対して、経営としてどう取り組んでいくのか。大潮流を見据えたR&Dの本質論を、経営陣と考えることからはじめた案件でした。商品や技術といった“成果”そのものだけでなく、それを産み出す、“仕事の進め方”や“組織の風土”もマネジメント対象としたのです」
その後、その自動車メーカーはリーマン・ショックが起きる前までは堅調に事業を拡大。今も新技術を売りにした新型車で市場をリードしている。
5~10年後を予見する〝将来ビジョン〟の案件は、印象に残る仕事ばかり
二つ目は、“将来ビジョン・新規事業”を考える案件。「電池を例に取りましょう。電池にかかわる企業には素材を扱うメーカーや、電極などを作るところもあれば、それらを組み合わせて電池にする企業、電池を搭載する電気自動車を作る会社もあります。さらに、電気自動車=蓄電池と見立てて、家庭や都市での生活のために活用することも考えられます。
ADLにはそうした一連の流れを一気通貫で把握して、産業全体がどのような方向に向かうのかという予測に基づく将来ビジョンの構築や新規事業創造の相談が多く寄せられています。これらの案件はどれも印象に残る仕事となります。
とある新規事業プロジェクトでは、終了3年後に『新規事業がうまくいっているので宴席を設けさせてください』との電話があり、久しぶりに再会し、我々の身にあまる感謝と絶賛の言葉を伺った時は、面はゆい一方で、『ありがとう』の言葉がとても嬉しく、コンサル冥利につきると感じました」
最後の一つは、「最近、自社製品の品質が落ちたのでは?」という社長の直感から始まったプロジェクトだ。「データ上では一見する限り、品質に問題があるように見えませんでした。ところが詳しく見ていくと、お客様が“トラブル”と直接感じる現象や、開発上あってはならない問題が実際に増えていたのです。社長は詳しく分析してみたわけではなく、直感で『何かおかしい』と気付いたわけです。あらためて大局的な直感力の大切さを感じさせられましたね」
学生に伝えたい職場選びのポイント
そのようなキャリアを歩んできた原田氏が、就活生に伝えたい職場選びのポイントは三つ。高度で困難な仕事に出会えること、自発性を尊重している組織風土であること、異なる価値観の人達と高い視点で協業できる環境があることだ。「人材育成に最も力を入れ、成功しているといわれているGEの例を紹介しましょう。GEでは、これはと思う人材には、まずは、その部門で最も難しい課題を与えるそうです。
次にこれを突破してきた人材には、上司がいない状況を半年つくり、課題設定の能力を試します。最後に、部門を超えて協力し合い、大きな経営課題を解く場を与えられます。早く成長することだけを目指すと、どこかで行き詰まります。早さだけでなく深さとバランスが担保された形で成長できる場を選ぶことも重要かと思います。
これからのkey wordは、diversityです。多様性を受け容れ、異なる意見やアイデアをまとめていく力。そう簡単には誰かに取って代わられない知的チャレンジが高い仕事をできるようになること、そしてそれを個人に閉じることなく、diversityをもって展開できるようになること。新興国に簡単に真似できない、日本に残っていく日本人らしい発想・技術が必要な仕事を定義し、かつ、世界に貢献していく上でも必要な考え方かと思います。また、 最後の重要な判断ポイントは、“成長させてくれる企業”ではなく、“私がこの企業を成長させているんだ”と先輩が言っている企業を選ぶことだと思います」
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